
オーストラリアを代表する飛べない鳥のエミュー。古くから人間とのかかわりは深いものでしたが、かつてエミューと人間がいがみ合っていたこともあるようです。今回はそんなエミューと人間のかかわりについてご紹介していきたいと思います。
人間とエミューが本気で戦ったエミュー戦争

エミューが生息地背あるオーストラリアでは大陸全土でその姿を確認することができます。エミューの個体数も安定しており、オーストラリアの人々にとっては身近な存在であるようです。
エミューは繁殖力が非常に高く、砂漠化した荒れた土地でも生息可能な丈夫な鳥であり、畜産も盛んですがかつては農作物を荒らす害獣として扱われていたことがありました。
その最たるエピソードが「エミュー戦争」です。
エミュー戦争の背景

もともとイギリスの植民地であったオーストラリアはイギリスから独立後も、イギリスが参加する戦争に度々参加をしていました。第一次世界大戦も同様で、この戦争でもイギリスの味方としてオーストラリア軍はガリポリの戦いに参加するなど兵力を供給していました。
終戦後、オーストラリア出身の軍人はイギリスの退役兵とともにオーストラリアに戻り西オーストラリアのキャンピオン地区で農民として生計を立てていました。
しかし、1929年に起こった世界恐慌の影響で、主要な農作物である小麦の価格は下落。オーストラリア政府は補助金を出すというアナウンスをしましたが、小麦の価格は下がり続け1932年頃には深刻な状態に陥っていました。
そんな状況で彼らにさらなる悲劇が訪れます。繁殖期を終えたエミューが襲来し、農作物を食い荒らしてしまったのです。
エミューは非常に頑丈な鳥で砂漠化しかけている土地でもエサを求めて長距離を移動し、生き抜くことができるのですが皮肉にも小麦の価格下落で苦しんでいるキャンピオン地区の人々の農場がエミューのターゲットにされてしまったのです。
エミュー戦争勃発

エミューたちは農場を破壊するだけにとどまらず、農作物を囲っていた柵を壊すなどの被害が出たこともあり、農民は国防大臣であるジョージ・ピアースに相談。元軍人でもある農民たちは銃を使ったエミュー討伐を訴えました。
ピアースも銃を用いたエミューの駆除がオーストラリア軍の射撃訓練になると考え、軍の配備を許可。これが国会で可決され、1932年10月に軍がキャンピオン地区に配備されました。その後すぐ長雨が続き行動は延期が続きましたが、11月2日についにエミュー退治の行動が開始されました。
兵隊たちはすぐに50羽ものエミューの群れを見つけ砲撃を行いますが、エミューは散り散りに逃げだし、効果を上げることができませんでした。
その2日後の11月4日兵隊たちは1000頭もノエミューの群れを発見します。前回の反省も踏まえて今回はエミューが近づくまでっ待ち伏せを試みますが途中で銃が不具合を起こし結局12羽仕留めたのみに終わりました。
エミュー戦争の終結

その後もトラックに銃を設置してエミューに並走して狙撃するなどの作戦がとられましたが、いずれも成功せず大した成果を得られなかった一方で大量の弾薬が浪費されました。
エミューの危機回避能力に人間はなすすべもなく、国費を無駄にしているという批判から1か月ほどで終結を迎えました。
人気のエミューオイル

人間はエミューと戦った一方エミューから恩恵を受けている側面もあります。その一つがエミューオイルです。
エミューオイルはオーストラリアの先住民であるアボリジニも肌に塗っていたといわれています。
アボリジニはエミューの肉を日常的に食していたといわれており、エミューオイルを使用することも一般的だったと考えられています。
エミューオイルの脂肪酸は人間の皮脂に近いものであり、傷ややけど、関節痛などに効果のある万能薬とされていました。
近年ではエミューオイルを用いた化粧品や化粧品が注目を浴びています。
エミューと人間のかかわりをご紹介し参りました。人間はエミューと対立していた過去がある一方で古来からエミューからの恩恵を受けていました。
今後も人間とエミューが上手に共存していけることを願いたいと思います。